「宝」の教育
第4号
(平成2年10月)
天道館管長 清水健二
人間の体内を流れる血液は何十兆と言う過去の色々な血を引き継いで今日があるのであるが、我々は先祖の事はせいぜい祖父母あたり迄しか知識が無く、自分の血液が何十兆もの過去の血が混ざり合ったものだとは考えつかない。
しかし、その血液の中には誰もが大変に優れた能力、特技を遺伝子にインプットされたものを持ち合わせているのである。故に、生まれて来た子供を昔から「宝」と言うのであろう。
しかし、その貴重なものを今日の教育は普通の人間(鋳型に嵌まった人間)に無理やりしてしまう事によって台無しにしてしまっている。
子供は生まれ持ってきた才能を潰きれている。
これは今日の学校教育の体制に原因があろうが、親にも一因があると思われる。子の為と言いつつ、親のメンツや世間体で子を育てている面が目立つ。
親はわが子の10年先、20年先を見据えて子を育てる責任を持っている筈だ。
これだけ世界が狭くなってきた今日、世界の軌道に合った人間(国際人)の教育が必要ではなかろうか。
日本の軌道と世界の軌道とは同一では無い。
日本の軌道だけに合わせた教育では、日本は近い将来脱線するだろう。
頭だけを専一に鍛えられて大きくなっていく子は体のバランスを欠き、無神経な子に育ち勝ちである。
神経は全身に張り巡らされているのに頭だけを重視して体をないがしろにすると神経伝達は末端迄及ばず、頭の中で空転し、体は身勝手なふる舞いをする様になる。
体の隅々迄神経が行き渡ると、心身のバランスがとれて、人と人との関係や人と自然との関係が良くなる。
その為に正しい教育が求められている。
人間にとって何よりも大切なものは教養だが、それは単に知識の量だけを表すものでは無く、真実性・善意・美意識といったものが重要な意味合いをもつ。
それらを支えるものとして愛情がある訳だが、教育は即ちこの教養を高める事に、その目的の1つがある。
教養は体験を通じて体得して行くもので、各人が各様に身につける必要があり、それによって個性が伸びる。教養が身につく躾(しつけ)が出来、文字通り身体の動きが美しくなる。逆に躾が出来て始めて教養が身についたと言えるのでは無いだろうか。