手応え
第57号
(平成16年1月)
天道館管長 清水健二
勝海舟が西郷隆盛の人柄を「太鼓のような男だ」と評したそうだ。打てばそれ相当の響きが返ってくるというのである。いわゆる手応えのある男のことである。幕未から明治維新にかけたあの時代に相応しい人物だったのであろう。それに引き変え今の日本はどうか。自衛隊のイラク派遣を巡る国会質疑の空虚さがそれを象徴している。
合気道でも手応えが同じように大切である。試合を行わない武道なので、仕手(技をかける者)と受け(技を受ける者)がややもすると馴れ合いに陥りやすい。技が掛かる前に受けが勝手に倒れる姿勢をとると、仕手に手応えはなく、それこそ空虚な技になる。有段者同士でもオートマチックに技を掛け合う合気道が少なくない。
合気道の技は「投げ」「極め」「抑え」「当て身」等その種類は多彩である。試合形式をとれば昔から伝えられてきた鋭い技は削除せざるを得ない。何故なら優れた技とは危険な技でもあるからだ。例えば関節を特殊な技術で極める技は、大の男でも嵌(はま)ってしまうとどうしようもない。という訳で試合を行わず反復稽古に徹することにより互いを錬磨する。
従って受けは仕手に対して手応えのある受身を取ることが大切である。合気道開祖が内弟子だった我々に厳しく指導したものである。受けは仕手の技に対し絶妙の呼吸と体捌きで接することを覚えていく。風の強弱に応じて竹のしなりが変わるようにあくまでも自然でなければならない。それが仕手となったときに技に生きてくるのである。自分をゼロとし、相手を読み、相手と一つになり、自然に流れていく。禅に通じる合気道の哲学がそこにある。
荒れる成人式しかり現在の社会を直視すると不安な状況ばかり目につく。社会を形成するのは人間なのだから、まず我々は人に対して手応えのある人間にならなければならない。しかしそれには自分を捨てるという勇気を必要とする。知識や知恵と違って勇気は人に借りることができない。因って己を鍛えなければいけない。新年を迎えこのことを自分に言い聞かせている。